GUCCIの”盗用”問題についての考察と感想
こんにちは。とある東大生です。
先日このようなニュースが出て話題になりましたが皆様はご存知でしょうか?
簡単に要約すると、GUCCIが新作発表のファッションショーにおいて、シク教徒を連想させる、頭部にターバンを巻いたルックを披露し、その結果シク教を冒涜・盗用しているとして世界で非難を浴びている、または論争になっているという話です。
インド人のイメージとしてターバンはよく出てきますが、ターバンはシク教の特徴であり、実は割合的にはそれほど多くはないんですよ。(割合としては国内シェアわずか1.9%!)
信者数としては約3000万人であり、世界で5番目に信者が多い宗教ではありますが、さすがは人口世界2位のインドです。13億の力は半端じゃないです。
今回はこの話題について個人的に感じたことを、ある一つの命題を立てて、それに対して論じるという形で、お話ししたいと思います。ややこしいことを言っていますが、要するに一人で討論してみて個人的な見解を示すということです。
命題:今回のターバン事件において、GUCCIは"悪い"ことをした。
僕は先に結論を言うと、GUCCIは今回の件においては"悪い"ことをしていないと考えています。その根拠についてまず話したいと思います。
擁護の根拠①クリエーションと盗用の定義
まずクリエーションという言葉について調べてみました。デジタル大辞泉
によると、「クリエーション:創造。創作。」とのみ書いてあります。
次に創作という言葉について調べてみました。
デジタル大辞泉によると、
創作:
①新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を
創作 する」
②文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を創作 する」「創作 舞踊」
③ つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の創作 だ」
また、ビジネス面でより具体的に書かれている産学連携キーワード辞典 によると、
創作:
「創作」とは、特許法第2条第1項で述べられている発明となるのための条件の1つで、新しいことを作り出すこと、自明でないことをいう。何も作り出さない「発見」とは区別される。したがって、天然物の単なる発見などは、特許法上の発明には該当しないが、天然物から人為的に分離した科学物質を作り出すことは「創作」であり、発明に該当する。
と書かれています。
次に盗用について調べてみます。
大辞林第三版によると
他人のものを盗んで使うこと。許可を得ないで用いること。
と書いてあります。要するに皆さんがイメージしてる”パクリ”っていうことですよね。
もう少し具体的に考えてみたいと思います。
このサイトのブログが非常にわかりやすかったので今回参考にさせていただきました。
こちらの法律事務所の解説によると、法律上の観点から見た場合
なんとなく似ているのと著作権侵害、つまり盗用は全く異なるようです。
"なんとなく似ている"のと"著作権侵害"かを区別する手段として両者の類似点を抽出して、その類似点の性質がある一定の条件を満たすと初めて著作権侵害が認められるようです。
つまり、共通点の性質として、
①アイデアや思想に過ぎない場合や
②表現上の創作性が認められない場合(共通部分が普遍的な概念の場合)
は著作権侵害には当てはまらず、
抽出した共通の部分に「表現上の本質的な特徴の同一性」がある場合にはじめて類似性が認められ、著作権侵害が当てはまるようです。
下図が非常にわかりやすかったのでお借りして貼っておきます。
概念としては一目瞭然でわかりやすいのですが、
いざ実際に考えてみるとWhat is 「表現上の本質的な特徴」?ってってなるんですよね。
今回のGUCCIの場合はシク教のターバンとの共通点は
・布を頭に巻き付けて覆っている
・モデルの衣装もアジアを連想させる内容で、シク教を念頭に入れてると思われる
ぐらいなんですよね。ネットから画像を見てる限り。
布を頭に巻き付けて覆う、という要素はバンダナでもありますから普遍的な概念ですし、おそらく宗教からインスピレーションを得て作ってるので、デザインの根底の概念は共通なのかもしれませんが、それも法的にセーフだと定義されています。
確かに、面積がデカめの"ガチ"なターバンをいかにもな形で巻いてるのでシク教を連想させ、その結果今回の騒動になったのかもしれません。
ネットで調べてみたところ、シク教のターバンの巻き方や布面積の大きさは人によって様々でした。(頭を覆えばOKらしい)
もし"シク教の巻き方はこれだ!"というのが一義的に決まっていたら、その巻き方はそれをシク教たらしめるアイデンティティとして、「表現上の本質的な特徴」になりますし、GUCCIのターバンの巻き方とそれが一緒であったりしたら、話は変わってくるのでしょうが、上記のブログによる解説を基にすれば、法的な観点から見てアウトではないのかなと僕は思います。
擁護の根拠②冒涜している?
今回、GUCCIに関する議論で糾弾している側の主張の根拠は盗用という法的なところと、シク教を真似している=侮辱しているという感情論の主な二点に分けられると思います。
擁護の意見①においては法的な観点から論じてみましたが、②は主に感情論についてです。
感情論については法律と違って白黒の判定がつけるのが難しく、多数派が押し切ったり、声をあげたもの勝ちみたいなことがしばしば発生するので何が正解とかは論じるのはできないんですがここは僕の意見を述べてみたいと思います。
冒涜に関する議論についてはちょっと稚拙すぎるかなというのが僕の正直な感想です。
冒涜というのは明らかにあるものを連想させる相手がいて、その対象とマイナスイメージを結びつける、または相手の信念に傷をつけることがあれば冒涜という行為だと考えています。
つまり、今回の件で考えた場合、このターバン風のルックがどのような文脈・ニュアンスで使われたかがこの議論において重要だと僕は思います。
それについて調べてみたところ、以下の記事がありました。
この記事を読む限り、GUCCIは多様性をビジネスやファッションとして受け入れ、その一環として今回ダイバーシティを表現するためにこのコレクションを発表したものだと考えられます。(このコレクションを発表したのは去年ですが。)
つまり、このコレクションからは多様性へのリスペクトと、多様性を受け入れるというGUCCIの姿勢を非常に強く感じます。
ということは、このコレクションおよびターバン風のルックは少なくとも揶揄といったマイナスな文脈では用いられていないわけです。
その一部を切り抜き、それを見て人々が「宗教や肌の色といったセンシティブな話題に足を突っ込んでいるからけしからん。それは冒涜だ。」という理屈で叩いている印象があります。
多様性に対するリスペクトが、恣意的な切り取り方により、結果として多様性を否定するニュアンス、つまり全く逆の意味で用いられているのです。これはあまりにも馬鹿げていると思います。馬鹿げているというのは誤解を招くように恣意的に切り取るメディアもそうですし、それに踊らされて正義を振りかざしている気分になって叩いている人々の両者です。
切り取り方の怖さを物語るたとえ話として桃太郎があります。
桃太郎は簡単に流れを説明すると、
桃から桃太郎が生まれる
→成長して、昔から財宝を奪い、村を苦しめる鬼の退治に向かう
→途中で猿・犬・雉を仲間に加える
→鬼ヶ島に到着
→鬼ヶ島を急襲
→鬼退治に成功、財宝を奪取
→皆に歓迎され、村に凱旋
という勧善懲悪の分かりやすい話ですよね。
しかし場合によっては、
(桃から桃太郎が生まれる)
→(成長して、昔から財宝を奪い、村を苦しめる鬼の退治に向かう)
→(途中で猿・犬・雉を仲間に加える)
→鬼ヶ島に到着
→鬼ヶ島を急襲
→鬼退治に成功、財宝を奪取
→(皆に歓迎され、)村に凱旋
という切り方もすることができ、さらに鬼目線でこれを描けば、平和に楽しく暮らしていたところに突如桃太郎という強盗が襲いに来た挙句、略奪殺戮の限りを尽くして財産をすべて巻き上げるという、本来とは全く逆のストーリーを、嘘をでっち上げることなく、構成することができるのです。
つまり何が言いたいというと、嘘をでっち上げなくても物事の切り取り方を変えるだけで、それが人に与える印象は大きく変わる可能性があり、その切り取られた一部の情報を見てそれを"事実"と見なして多くの人々はその上に踊らされている現実が実際にある、だからこそ我々は目の前の情報のみを思考停止して鵜呑みにすべきでないということです。
というわけで、感情論の立場から考えても、GUCCIは別にシク教を揶揄する文脈でターバン風のルックを発表してない上、むしろ多様性を尊重し、シク教含め宗教に対して歩み寄ろうというスタンスが見えているのに、そこを逆に冒涜だとして無下に扱うのはちょっとナンセンスかなと思いました。
それでは、次に”GUCCIが悪いだろ"という立場での言い分を検討してみたいと思います。
反論①どう考えてもワキが甘い
GUCCIといえば、つい最近も人種差別疑惑で炎上したという話を知っていらっしゃる方も多いと思います。具体的にいうと、目出し帽風ニットが、黒人以外の役者が黒人の役を演じるために施す化粧であるブラックフェイスを想起させるものであり、黒人差別であるとして、大炎上したという話です。
確かに、これは明らかに口の周囲を唇を連想させる赤色に塗り、ニットも真っ黒であることから、黒人の特徴である厚い唇と黒い肌を想起させます。また、黒人モデルが着用したらまだ良かったのかもしれませんが、白人モデルがこれを着用したことにより、ブラックフェイスを想起させてしまう内容となり、さらにGUCCIの公式twitterで「黒人歴史月間おめでとう」というコメントとともに発表した結果、炎上したのです。
これはどちらかというとブラックフェイスというタブーの文化にわざわざ踏み込んでしまったGUCCIが悪いのもありますが、黒い目出し帽風ニットが悪いというよりも、今日の多様性を認めつつある国際社会において”完全な悪”であるブラックフェイスという文化のせいで割を食らったというのはあります。
なぜブラックフェイスが悪い文化なのか話し始めると長くなるので、超簡略にまとめますが、
19世紀から1960年代に至るまで、当時黒人の俳優がいなかったので(黒人は人種差別や教養不足で俳優になれなかった)、白人が黒人の役をやらざるをえず、顔に黒塗りを施した。また、当時の映画の中でブラックフェイスを施した黒人役の俳優は馬鹿でファニーな役柄をやることが多かった(当時黒人はあまり学校に通えなかったので教養がない人が多かったため)。つまり、明らかに黒人を揶揄する文脈、もしくはイメージで使われることが多かった。だから、顔を黒く塗ること自体が"悪い"ことなのではなく、顔を黒塗りにすることが当時の人種差別を想起させるのでタブーなのである、という話です。
※どれぐらいブラックフェイスがタブー視されているかというと、一昨年の年末のガキ使でダウンタウンの浜ちゃんがブラックフェイスを施した様子がイギリスのBBCで取り上げられ、問題視されているぐらいです。(浜ちゃんは馬鹿で陽気な天パでちょび髭の黒人という当時の洋画で頻繁に出てくる典型的な黒人役の服装をしています)
前置きが長くなりましたが、要するにGUCCIは"やらかした"わけです。
GUCCI自体が人種差別を肯定したわけではありませんが、白人をモデルとして黒ニットを着せた結果、ブラックフェイスという人種差別の象徴となる文化を想起させ、かつアフリカ系アメリカ人の活躍の歴史を振り返る月間、つまりは人種差別開放の歴史を振り返る月間を讃える文脈でこのブラックフェイスと捉えかねられないルックを公開してしまったのです。
”不適切”なルックを”不適切な文脈"で出してしまったわけです。
更には人種差別というデリケートな話題であるにも関わらず。
これはターバン風ルックの件でも当てはまります。
人種差別や宗教という(それを想起させる)明らかにセンシティブな内容への配慮が足りなかったのはあると思います。
具体的に言えば、ターバン風ルックをするモデルにシク教徒を起用していたら話はだいぶ変わっていたのかもしれません。
ただ、”いかにも”シク教徒がターバンを巻いても面白くない。シク教徒には見えない非インド系が、イケてるターバンを巻いたら面白いんじゃないか、もしくは多様性という意図で”あえて” このように演出したのかもしれません。
※実はこのターバンとニットは同じ2019-20秋冬のコレクションとして発表されたものなのです。つまり同じコレクションで発表されたものです。人種、宗教といった多様性を表現するためにグッチなりに表現をしたら、それが”攻めすぎていた”、もしくは論争が起きるのも織り込み済みだったというのが実際のところだと思います。
反論②行為を受けた側が不快に感じたらその時点でハラスメントとして成立する
ここに至るまで触れていませんでしたが、今回このターバンの件について抗議したのがシク教の市民団体であるというのはポイントだと思います。
もしシク教とは何の関係もない人が”これは宗教に対しての差別だろ!"って騒いでたのであれば、それは正義面をする一般大衆による価値観の押し付けであり、問題にはならないのかもしれませんが(この場合、当の本人はそれほど不快に感じていないケースが多々あるから)、上記のニュースによるとシク教の関係者団体が声をあげています。
そこでハラスメントの定義について調べてみました。
大阪医科大学の説明によると(https://www.osaka-med.ac.jp/deps/jinji/harassment/definition.htm),
ハラスメントとは様々な場面での「嫌がらせ・いじめ」を指し、他者に他する行動・言動が本人の意図に関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること、だと書かれています。
つまり、今回のケースを当てはめた場合、GUCCIがどれほど社会的に意義のあることをしていたとしても、また宗教や人種差別といったことに配慮をしていたとしてもシク教の関係者から見て不快だった場合、それは『ハラスメント』になるのです。
※ここからは個人の感想です
しかし、ハラスメントの話題において非常に難しいなと日頃から感じていることとして、『全員が満足することはなかなか存在しない』ということがあります。
定義上1人でも不快に感じることがあれば、それはハラスメントに当該しますが、現実として1個人がどれだけ不快に感じようが社会はなかなか変わらないというのがあります。
なぜなら、一人が反論の声をあげて、いちいちそれに立ち止まっていた場合、政治や社会は前に進まないからです。
結果として政治は51:49で賛成多数となる着地点を探りながら前へ進むという形を取っているのですが(これは以前経産省に勤める官僚の方とお話しさせていただいた際に伺ったことです)、この政治形態が一人の不満も認めないハラスメントの概念と相反するからです。
一方でSNSの台頭により、個人であっても"インフルエンサー"と呼ばれる影響力を持つ者が世界中に多数現れ、彼らが問題提起したことが議論になり、または彼らの言うことが"正義"だとして社会的なムーブメントになることが多々有ります。
そして、最終的には彼らが提起したハラスメントが乱立して、何をするにも肩身が狭い思いをする時代に徐々になると思います。100:0を求めて何も動けない社会になるか、49を排除して100:0を作り出す社会になってしまうという危険をはらんだ難しい局面に来ているなと感じています。
まとめ
今回は「GUCCIは悪いことをしたのか?」という命題を立てて論ずるということをやってみました。結論としては上で述べたように、GUCCIは悪いことはやってないと僕は個人的に思っています。
なぜなら、GUCCIは白黒がつく法律的な観点においてはなんの問題もなく、感情論といった漠然とした議論においても、議論を招くことは起こしていても、決定的にアウトなことはやっていないからです。
一方でハラスメントという難しい問題に直面しましたが、これは個人においても企業という人間の集合体においても、それらがいかなる意思決定を行う際にもつきまとう問題なので、今回のケースでハラスメントに接触しているから"悪い"という結論を出すと、何事もアウトになりかねないので今回はこういう結論を出しました。
皆様は『Standing on the shoulders of Giants』という言葉はご存知でしょうか?
『巨人の肩の上に立つ』という言葉の方が有名かもしれません。
これは万有引力の法則の発見で有名なアイザック・ニュートンの名言です。
この格言は大学に入ってアカデミックな分野を学ぶ際に教授に教えられたことです。
先人が積み重ねた知見(巨人の肩)をもとに新しい事柄を発見・発明するという学術のスタンスをわかりやすく説明したものです。
最初に申し上げましたが、クリエーションとは創作、創作とは今までにないものを作り上げることを指します。
クリエーションの定義を0→1の行為だと勘違いしている人は非常に多くいます。一方、クリエーションに関わる人によると、それらの人々は皆、クリエーションは10→11の行為であるといいます。
わかりやすい例を挙げてみましょう。
スマートフォン用のあるアプリを開発したとします。
当然ですがそのアプリを動かすためにプログラムが必要となります。
また、そのプログラムを組むプログラマーが必要となります。
そしてそのプログラマーはPythonといったプログラミング言語や、エクセルといった計算ソフトを使いこなすことが求められます。それらを組み合わせて既存にないアプリケーションを作って初めてクリエーションは成立します。
つまり、この場合、既存のソフトやプログラミング言語(巨人)を用いて新しいものを作り出しているわけです。0→1という発想をこれに適用すると、新しいアプリを作るのに、まずはエクセルを作らないと、Pythonも一から作らないと、ということになって無限に時間がかかってしまいます。
デザインにおいても同様です。
元からあるものに少しでも付け加えれば、もしくは再解釈すればそれは新しいものでであり、その行為はクリエーションなのです。10→11の行為が比較的明確でわかりやすいアプリの話の場合とは異なり、芸術やアパレルといったデザインの分野においてはこれが非常にわかりにくいのが問題なのです。
今回の場合、ファッションショーという単位でこれを見た場合、もしかしたら白人×ターバンという行為をクリエーションとして考えたのかもしれません。もしそれが正解であれば、クリエーションという観点からいうと、未知の領域に踏み出しているのでそれはれっきとしたクリエーションであると言えます。もちろんセンシティブな話題になるので細心の注意を払う必要がありますが。
今日国際社会はトレンドとして多様性、すなわちダイバーシティを認めるのが当然になりつつあります。それはなぜかと考えたことがありますでしょうか?それは人道的な観点からすべての人々に人権を認めなけれならないという、道徳によるものでしょうか?
今回この件について少し考えてみて気づいたのは、多様性を認めることで今までになかった(表面に出ていなかった、もしくは画一化していたことで失われていた)新たな価値観や新たなアイデアを顕在化させる、そしてそれらを組みあわせることによって飛躍的にクリエーションの質と量を増やすことができるという、実に理にかなった現実的な計算のもとでそのような世の中に移行しつつあるのではということです。
もしGUCCIがこのようなトレンドを完全に見透かして、その先駆けとして宗教や人種と、既存のものを今までにない組み合わせで、合体させることでどのようなことが起きるのかという反応を僕たち世界中の人間を使って試していたのなら、それはもう恐ろしいことだ、GUCCIには脱帽だと思った次第です。
とりあえず今回はここら辺で終わろうと思います。
3000文字ぐらいでサクッと書こうと思ったら書きたいことが次から次へと思い浮かんで8500文字ぐらいになり1日掛かりの作業になってしまいました…
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それでは今日はこの辺りで失礼いたします。それでは次回の記事でお会いしましょう。